2017/06/02
人に気を遣いたくない
疲れた…何に疲れてるかもわからない
体調の悪さ、精神的な落ち込みを越える度に無気力になっていく
正確にはそれに抗おうと何かをやろうとして見るが、結局人に気を遣ってばかりで全然自分の感情が動かないというか
もう嫌だ
何故何も起こってないのに
仕事も19時で終わるのに
ただただ自分の不手際で怒られるだけなのにこんなに落ち込むのか…
はたから見ればそんなに大変じゃない仕事だし
芋づる式に辛いことばかり思い出させる
仕事中1人になると涙が止まらない異常な人だし
オードリー若林の本かで読んだ「春日はいつだって楽しそうで、若林はいつだってつまらなそうだった」て一文をよく思い出す
誰にも気を遣いたくないけど迷惑もかけたくないからもう何もしたくなくなってくる
本当はいろんなことしたいけど、
その「いろんなこと」が無いのがつらい
その辛さに耐えられない自分が嫌だ…
書いてて違うな…とおもいつつ
誰かに会いたいけど、誰にも会いたく無い気もする
予定があると体がこわばる
来週転職のカウンセリング受けるけど、準備が多くて憂鬱になってくる
低気圧のせいかな…
楽しいこと見つけて楽しそうにしてる人に水差すような真似は出来ないなあ
なんかもうどうしていいかわかんないなあ
お金のせいなのかなあ
お金より何にも興味が湧かなくなったことがひたすらに辛くて寂しいなあ
誰にも迷惑かけたくなさすぎる
そんなの無理だとわかってるけど
そんな人たくさんいるとわかっているけど
5分後の未来のことも考えられない
思考が死んでることがつらい
どうすれば
いや、もともとこうだったけど
わからない
どうすればいいんだろう
こめかみがひんやり
ツイッター上の文章は流れる感じだが、
ブログの文章は止まっているな。
当たり前だけど。
春になればだんだんと元気になるかなと思っていたけど逆で、なればなるほど自分が無に近づいていく。自分を完全に見失ってきた。
快も不快もなくなってきている。
見失いすぎて、目の前の人の欲求を自分の欲求と思い込んで、相手の欲求を満たすことで自分の欲求を満たしたと思い込ませることで日々を過ごしている気がする。みんな当たり前にそうなんだろうか?
榎本俊二でいうサード自分くらいの距離感だよ。自分を上から見ている自分を見ている自分。遠い、、
しなきゃいけないことも、したほうがいいことも、したいこともどうでもよくなってきた。
どうでもよくなってきている自分が辛い。
1月ぐらいの方がまだ不快とかわかってた気がする。もう何にもない。
形だけは動こうとして、カウンセリングを受けたり、婦人科で薬をもらったりしたが、肝心の治す気力が皆無なのでどうしような。
もうこのまましんでいく気がするな。
厨二的に、しにたい…みたいな感じではなく、手先指先の冷たさやこめかみがひんやりする感じで謎の実感みたいなのを感じたり。
しにたくないけどな…楽しいことを楽しいと思う才能がないな。楽しむ才能がないな。
他人に迷惑かけたくなさで生きている。
それが辛いことだと分かっている。
もう面倒臭い。
反論するのも仕事を辞めるのも面倒くさい。
壊れたパソコンを買い換えるのも面倒くさい。
そもそもお金もない。
お金あってもやりたいことがない。
やりたいことがない自分が悲しい。
楽しみたいのに楽しくない。
自分に関わってくれる人たちのやる気を失いたくないからこうやってネットの海に彷徨わせるしかない。
好きな人たちは楽しく生きて欲しい…
もうだめだ…しんどい
頭が痛くなってきた
お金がないからなのかな
生活ギリギリだしな
でも死なないぞ…
適度に長生きしたい
やさしさにつけこまれたら
2月は週に2本の映画、2本のドラマ、2冊の本10冊の漫画を摂取して、それなりに頭を動かして生きることができた。
1月はベットの上でしんでいたから前進はしている。SNSを完全に絶ったのがでかかった。
3月はそろそろ机に向かいたい。
描きたいもの
何者にもなりたくないもの、誰からも忘れられる人、不可分な人。その人は、生きることを、孤独ではないことを善とする前提の話を見ると辛くなる。陽のエネルギーで生きてみたいと考え、試してみたが居場所はなかった。悲観的なことは死を表さないし、そもそも死も大したことではないと思っている。生も性も、死と同様に全部フラットだ。特にその人にとってセックスは孤独な魂に触れあいだった。何故無限を有限に言葉を当てはめるのか、定義するのか。言葉にしなければ無限でいられたのに、とその人は思う。言葉にした途端、終わりが生まれた。
「ずっとそばにいてほしい」と言われ、姿を消した。
孤独でいれば寂しさを感じられずに済むのに、始まらなければ終わることはないのに。
その人は誰の記憶にも残らないことを願う。
何者にもなりたくないものは、男にも女にもなれず、遠く離れて、生きているけど死んでいる。死んでいるけど生きている。